
アンティークピアノとの別れ
これは、築150年以上の今の家に住み始めた時からずっと一緒に暮らしていたアンティークピアノです。

この街に引っ越して来たばかりの時に、家具をモダンなものに総入れ替えするというお金持ちの家から譲り受けました。元の持ち主は楽器や歴史の専門家ではないのでいつの時代のものなのか、どういういきさつでここにあるのかはわからないし、ピアノも弾けないので音が出るかもわからないと言っていました。でも、蓋を開けてみると、美しい象牙の鍵盤がまだ健在で、弾けるんじゃないかという気がしたので、古い弦に負担をかけないようにゆったりとしたショパンのノクターンを弾いてみたのです。
その音は、今でも忘れられません。遠い過去から語り掛けてくるような、古びた、でも、ブレない芯のある音色でした。これには元の持ち主も「音が出た!」とびっくり。
グランドピアノならともかく、箱ピアノの鍵盤を象牙で作ろうなんて、これは今では考えられない、古い時代のヨーロッパ人の考え方だなとすぐにピント来ました。そもそも象牙なんて、現在では手に入りません。とはいえ19世紀以前の古い時代のピアノには左右に燭台が付いているのが常ですが、このピアノにはモダンなランプが取り付けられているので恐らく20世紀に入ってから、1920年代位の楽器じゃないかと想像しました。
そうして小さな古民家の我が家に迎えたお金持ちの家出身のアンティークピアノ。あなたの最初の持ち主はどんな人だったの?どんな曲を弾いていたの?モーツアルトの肖像が付いているということは、モーツアルトのファンだったの?
なんてことを考えながら、モーツアルトのソナタをよく弾いたものです。それから、なんとなく時代が合っているような気がして、ラヴェルやドビュッシーも。感情を思い切り表現したい時、ふと気が向いた時、いつでも付き合ってくれた古いピアノ。
子供たちが生まれた時、心配になりました。この可憐な芸術作品のようなアンティークのピアノがやんちゃな双子の男の子たちの扱いに耐えられるでしょうか。自分が子供の頃、祖母に買ってもらったピアノでどんな風に遊んだか、よーく自覚があるのでわかるのです。
この繊細なビーズのランプシェードなんて、あっという間に引きちぎられてしまうでしょう。かと言って、子供たちに言い聞かせて近づけさせないというのも違うと思うのです。小さい時からピアノに触れて、楽しんで、興味を持って欲しいと思うのです。でも、そのために、100年以上も人から人へと受け継がれてきたこのピアノがわたしの代で壊れてしまうのは忍びない。そこで、大切にできる人に引き渡すことを決意したのでした。
とはいえ元々「どういう由来なのかわからない」と言っていた人から譲り受けたピアノです。一体どの程度の価値があるのか、そもそも欲しい人がいるのかもわかりません。夫が恐る恐るインターネットに載せてみると、最初の投稿はあっという間に削除されてしまいました。なんでも「象牙の鍵盤」と書いたのがサイトの禁止事項に当たっていたらしく、「象牙の取引は法律で禁止されています」という自動メッセージが来てしまいました。そこで気を取り直してもう一度、「象牙」という言葉を遣わずに投稿してみると…そう間を置かずにこんなメッセージが届きました。
「こんにちは。わたしは音楽史研究家のファグスタットという者です。
お持ちのピアノは1870年代後半に作られた非常に珍しいもので、電気を使ったランプは当時では珍しいを通り越して奇跡的な存在でした。制作会社のシュマルカルデン社は1864年には存在が確認されており、1893年から1900年の間に製造を終了しています。このピアノは当時の制作者の最先端の技術を駆使したトップモデルだったはずです。(中略)あなたが設定している譲渡価格はフェア過ぎ、いや、少し謙遜しすぎでしょう。このように美しい姿を保ったまま現在まで伝わる工芸品が相応しい人の手元に渡ることを願ってやみません。」
なんと、1920年代どころかそれよりも更に半世紀も遡った19世紀に作られたピアノだったのです!ラヴェルやドビュッシーどころかあのショパンもまだ没後20年程度。ほぼ、同時代人です。クラッシックの数々の名作をタイムリーに奏でていたピアノということになります。そんなすごいピアノを毎日弾いていたなんて。これは本当に腕白双子の餌食にしてはいけない(笑)、名残惜しいけれど、相応しい人に持ち主のバトンを回そうという決意は正しかったのだと益々感じました。
幸いにも、数日後にピアノを是非譲ってほしいという男性が現れました。その人は近くの街で合唱団の団長をしているという音楽家で、合唱団の拠点でこのピアノを展示しながら演奏したいということでした。合唱団の団長さんならピアノを大事に手入れする知識も余裕もあるでしょう。プロの音楽家の手元に渡ることになって、本当によかった!これ以上ない相応しい人が見つかりました。
そして今日、ついに別れの時がやってきました。ピアノ運送専門の業者が我が家にやって来て、刺青に髭面の屈強な男性三人がかりで慎重に慎重にピアノを運び出して行きました。
今までありがとう!大事にしてもらってね。
スポンサーサイト